長崎くんち「銀屋町鯱太鼓」TOP銀屋町の目次亀山と田茶屋/本文


 亀山焼は文化四年(一八〇七)八幡町大神甚五平等によって伊良林(垣根山中腹)に開窯する。慶応元年(一八六五)まで六〇余年の歴史を有する。最初は外国船に積み込む水瓶を製作する意図で出発したのだが需要が少なくなり文化一一年(一八一四)頃より天草陶石を使って白磁染付へと変わってゆく。崎陽三筆と称される鉄翁祖門、木下逸雲、三浦悟門等を筆頭に多くの文人墨客といわれる芸術家達の作品が作られ素晴らしい芸術作品となって世間に出回ることとなる。その最盛期は文化一一年から天保九年(一八三八)頃迄であったらしく文久元年(一八六一)一二月休業、慶応元年には閉窯となる。
 先代大神甚五平から二代目甚五平迄、苦労多き窯業であったろうが長崎には貴重な文化遺産を創出した亀山焼はもっと巾広く研究され後世へ伝承されるべきと思われる。

推論「亀山」と「田ノ茶屋」物語


 文久元年一二月に休業を決めた甚五平は公的な借入金と個人からの借金の始末を同町(八幡町)乙名木下志賀之助及び木下逸雲(この当時乙名の役は兄の子、志賀之助へ譲っていた。又亀山焼最大の支援者)と相談していたと思われる。
 後、慶応元年五月に「亀山一件、口上之覚」として木下志賀之助が町年寄後藤惣左エ門、薬師寺久左エ門へ事の成り行きを列挙した文書を提出する。(下記はその文書のさわりである。)

@先代ヨリ譲請候家屋敷モ売払其他向々迄・・・・
A甚五平所持ノ陶器場所附属山畑並建家共残ラズ売払・・・・
(八幡町乙名木下家文書ヨリ)越中哲也氏著・亀山焼文献考 其ノ一参照
 甚五平は公的資金(借入金)を全財産を処分して長崎会所へ差出しますと述べている。

 それではどうして田利平が亀山の地を取得したのか。

 利平の家は父忠八(田家四代目)の代より銀屋町にて酒の小売と質商を業としていた。文政三年(一八二〇)忠八は銀屋町傘鉾の一手持となる。この年は忠八にとり長男利平が誕生する目出たい年であり、子供が息災で健やかに育ち家の発展を祈念して、天に昇らんとする鯉が竜に変わる様を傘鉾の飾(だし)として山本泰助に作らせたのであろう(流金出世鯉)

 田忠八はくんちと縁が深い者となり。八幡町と銀屋町は古くより踊町・当人町(年番町)は同じ組で廻っているので八幡町乙名木下逸雲(一八歳から乙名を継承し文政三年は二一〜二二歳である)とは面識もあり、おくんちの寄合でも言葉を交わす事もあったであろう。また逸雲は上野彦馬の父俊之丞と昵懇の間であった。銀屋町の上野宅には足しげく通っている。俊之丞没後は生前故人の依頼で後見人となっている。そして彦馬を日田広瀬淡窓の咸宜園へ入門させたのも逸雲である。この様に逸雲は銀屋町上野家と関わりも深く田家共くんち以外の仕事上の関係もあったのではなかろうか。質商を業とする田家である。客の持ち込む高額な書画、骨董の品定め、それに亀山焼の類は当時でも贋作が多かったといわれる程人気があったのである。逸雲はその亀山焼の中核に居た人物であれば目利きは申し分なく書画にも精通している人である。同じく銀屋町生まれで一一歳まで居住した春徳寺鉄翁も逸雲同様繋がりがあったと思われる。(永見徳太郎氏は長崎の美術史に銀屋町一九番地に誕生と掲載された。余談ではあるが長崎学大家の古賀十二郎先生が居住された所かもしれない。)鉄翁の母は文政一二年(一八二九)に亡くなる。心の優しい鉄翁は母が住む銀屋町の生家には度々顔を出し母と語らい亡き父の位牌へ手を合わせたであろう。

 唐絵目利、石崎融思師の門より江稼圃師に学んだ二人は仲が良かった。年上で一見して剛の鉄翁、柔の逸雲と性格は似ていないが、お互いの力量を認め合い尊敬もしていた。全国を旅する事が多かった逸雲は長崎を留守する時、田家よりの仕事の依頼は鉄翁に代わりを頼んだ事であろう。いずれにしても二人共銀屋町の縁者として、田家と関わりを持つことになる。

 鉄翁と俊之丞の家は一〜二軒家を挟んだ隣である。一一歳まで住んで居た鉄翁と当時は一三歳になっている俊之丞は幼なじみである。又化学知識ももある俊之丞は亀山焼にも興味があったらしく借家人で友人の松木宗保、それに逸雲や鉄翁も交えて盃を交わし昔話や巾広く文化論に花を咲かせたのではなかったか。

 松木宗保とは天保四年頃長崎行きを薩摩藩より拝命し天保一〇年以来かねて昵懇の上野俊之丞の旧宅を借りて住んでいた。

 亀山焼は天保九年(一八三八)を境に、この時代より不振に陥る。

 田忠八は弘化四年(一八四七)に亡くなり長男利平が跡を継ぐ二七歳、次男文平二一歳になっていた。(忠八には四男三女有)

 嘉永五年(一八五二)頃田文平は妻にトキを向かえた。

 安政末年から万延、元治年間は庶民の暮らしは厳しい時代であった。物価の上昇は激しく不作も加わり又時代情勢が不安定な事も要因し安政の開港も原因の一つであった。
 この頃(安政末〜万延)利平は甚五平の亀山焼へ資金を融通したのではないだろうか?亀山焼休業 文久元年一二月のことである。

 元治元年(一八六四)二月勝海舟は龍馬を帯同し前年長州による攘夷決行に対して四ヶ国連合艦隊の報復を延期させる為幕命により長崎へ来る(龍馬は神戸海軍操練場で勝の片腕の存在であった)
 この時が龍馬にとっては初めての長崎であり、街の繁栄そして何よりも艦隊(海軍力)の強烈な印象を持ったであろう。この滞在中海舟は小曽根乾堂(けんどう)に龍馬を引き合わせたと思われる。三人で「一大共有の海局」を肴に大いに盛り上がったであろう

 実に勃然と毛髪怒立、誅乱討賊之念頭より生じ、身ら富国をいたし、天下の英傑を激し海内軍艦五百隻を製し度例の愚見より生じ候。先生至誠天地感動仕候は、必ず御供願度、相娯居申候。
願くには近年の内、上海、ジャワ、仏、英、蘭之地へ商館を開き、旭の旗を建度ものと如鞭仕居申候。御一笑可被下候。
「勝海舟宛幕末明治初期書簡集」京都大学附属図書館、神野雄二著「日本印人研究、小曽根乾堂の生涯とその系譜」参照

 上記は乾堂が海舟へ宛てた書簡、万延元年(一八六〇)三三歳の時のもので、海舟と乾堂は志という絆で結ばれていたのである。元治元年一〇月海舟は神戸海軍操練所より江戸へ召還され謹慎の処分を受ける。
 龍馬は海舟の元を離れ操練所の同志達と共に西郷・小松率いる薩摩の庇護下へ入る(海舟は西郷へ龍馬の事を頼み込む。海舟と龍馬はこの後二度と会うことはなかった。)
 元治元年一一月初頃龍馬は師である海舟の事を考えた。そして小龍、東洋、瑞山、小楠、その時々の師の事を思った。自分が現在の立場で何が出来るのか。師である海舟は組織内で動ける限界を見せてくれたし、多分西郷とて組織内の人間でありそんなに変化はないと考えられる。それでは長州の白石正一郎や長崎の小曽根乾堂はどうか。商人でありながら尊皇の志を持ち国を愁い新国家像を描き、壮大な構想をい抱いているではないか。
 まず自分の力を付ける事、それには財を蓄え同志を増やし情報の収集や伝達方法、藩という垣根に囚われず自由に実践行動を起す事である。それが新しい国家へ報いる事であり諸外国と対等に交流できる道である。それが実現できる場所。進んだ外国の知識が溢れ、大きな取引が見込める所・師と仰ぐ海舟と臨んだ地。長崎で自分の旗を揚げる決心を固めた事であろう。

 元治元年一一月末頃、龍馬は側近の同志を乾堂の元へ派遣し、貿易、海運の商売(社中)をする旨伝え、同志達が住まう場所探しを依頼する。
 慶応元年(一八六五)五月、龍馬は鹿児島・熊本・大宰府・長州そして京へと薩長同盟へ向けて中岡慎太郎や同志達と動いていた。
 時代は急激に動いていた。亀山焼も火は消えていたが、今ここに違った形で炎が立ち始めた。

 文久三年(一八六三)二代目甚五平も公的資金返済目途が立ち残すは個人からの借金返済に絞られていた。休業からこの方手持ちの在庫品の販売等で生計を立てていたが、利子分を払うのが精一杯であったろう。

 元治元年暮頃(一八六四)銀屋町田利平は逸雲、鉄翁、そして見知らぬ二人の男達の訪問を受けた。(鉄翁はこの頃雲龍寺に引退していた)薩摩藩士松木弘安、小曽根乾堂とそれぞれ名乗った。
 松木弘安とは松木宗保の養子で一〇歳頃まで銀屋町旧上野邸に住まい、その后鹿児島へ戻り藩命で江戸へ遊学し医学、兵術、造船、蘭語を修学し帰藩後は主君斉彬公の侍医となる。この時は船奉行副役として五代才助と共に長崎で活動していた(逸雲は弘安の事を良く知っていて彼が幼少の頃銀屋町の松下文平塾で神童と呼ばれていた事、又上野彦馬も同塾で松木の再来と呼ばれた)その後、寺島宗則と改名し新政府で外務大臣となる。
 利平も文平も驚いた乾堂の名前や噂は十分すぎる程知ってはいたが会うのは初めてである。松木弘安とて同じである。

 現当主田博子氏より以前聞かされた言葉があった。『トキさんが龍馬さんのお世話をした事がある。』『その場所を「田ノ茶屋」と呼んでいた。』
 田トキは利平の弟文平の妻であり大正六年八六歳で亡くなるが、六人の子供を持ち、子や孫ひ孫へ楽しそうに龍馬の世話をした事や田ノ茶屋の事を語っていたらしく、現在へ伝わっている。

 乾堂はおだやかな口調で亀山焼の債権者の一人である利平へ他の債権者の権利を買い取り亀山の地を購入してほしいと、しかも資金迄乾堂自身が提供したいと切り出したのである。田利平兄弟が信頼のおける人物である事は鉄翁、逸雲から聞き及んでいた乾堂は龍馬からの依頼の事を包み隠さず打ち明けた上での事である。

 実は田利平に会う前に四人は雲龍寺にて話し合いの場を持っていたのである。
 弘安は小松帯刀や五代才助の頼みで龍馬たちの住む場所を探していた所、彦馬が写真館を開業した事を聞き、出向いて昔話等を交わしている途中亀山焼が休業をし逸雲も困っている事を聞かされ、早速逸雲に面会して全ての事情が判り龍馬の依頼で社中の場所を探している事を小松帯刀より知らされていた弘安は急ぎ小曽根乾堂へ連絡を取り合って鉄翁の元へ出向いたのである。

 鉄翁は田兄弟より厚く信頼されており特にトキは「利に走らず名も欲しがらず生涯無所得」を広言する鉄翁を敬愛していた。雲龍寺に移ってからも大好物の蕎麦を届けていた。父親の様な鉄翁との会話が楽しかったのである。

 居住場所は社中の隊士や下働きの者を入れると大所帯である。しかも隠れ家的要素も必要とし、なるべく目立たない場所が良かった。なぜなら龍馬を筆頭に脱藩者が隊士中に居るからである。ここ一番大事の前の小事として不便ではあるが無難に動き出したかったのであろう。亀山の地は最適であった。

 乾堂は龍馬の依頼を受けた時から休業中の亀山を候補地として考えていた。では乾堂程の人物が何故買わなかったのか。それは買えなかったと思われる。乾堂の父六左衛門は小曽根中興の祖である。祖先の平戸道喜は眼鏡橋の修復や数々の公共的な事業を行い社会に貢献した人であり、出島埋築においては二五人衆の中に入る豪商であったが次第に家は傾き六左衛門の父の代には貧困の時代であった。万延元年(一八六〇)浪の平に邸を建て乾堂は移るが六左衛門が借財をしていた浪の平一帯の事業はまだ終わっていなくて、土地利用に関して奉行、代官、庄屋達又住民を巻き込んで予想外の計画変更や役人達との摩擦等細々した相違があった(慶応二年まで続くのである)
 父六左衛門は文久三年に亡くなるが事業は乾堂が引き継いでいた。小曽根家は感謝(注一)もされたが役人達とは反目もあり複雑な感情のしこりが燻っていたのである。
 その上小曽根家は越前松平公を筆頭に幕府譜代の大名御用達を承る商人であれば堂々と討幕の志士達を支援する事は出来なかったであろう。細心の注意を払って事を成就させねば海舟に対しても顔向けできないのである。(小曽根邸を長崎藩邸として利用する大名達、複数有り)

注1:埋立工事中、文久二年夏疫病が流行り、乾堂夫妻は自宅内で看病し四〇数名
   の患者を無事全治させる。
 2:六左衛門は竹影翁伝の中で「商業ハ戦場也。資金ハ即チ兵也」と遺訓を刻ま
   れているが、埋立事業の最中、地主達が安値で奉行に買い上げられたと知っ
   て、気の毒に思い土地代の差額を負担している。厳しさだけの人ではなく、
   人情味も持ち合わせた人である。

 桜馬場の雲龍寺内では乾堂、弘安が話を煮詰めたようである。社中隊士の給与は薩摩が持ち、亀山の賃料と社中の便宜は乾堂が受け持つ内容でおおまかではあるが取り決めたようである。
 松木弘安は年が明けるとグラバーの手配で英国への密航を計画していた。社中の件は小松帯刀、五代才助に了解を取るだけである。慶応元年(一八六五)三月、弘安は五代等三人と共に長崎より乗船、鹿児島の羽島にて留学生一〇数名と英国へ渡る。

 小曽根乾堂は鉄翁に書を師事し亀山焼にて絵付をし画においても才を発揮する等多芸に秀でた人である。特に篆刻に関しては日本を代表する技術を持っている。又邦楽器特に月琴を好んでいて、明清楽を起こし門人多数、現在に到る。また貨幣制度の改正、殖産貿易について建議をする等経済にも明るく慈心を有する人柄で政治に関しても確固たる信念を持ち理念を描いていた人物である。

 鉄翁祖門(春徳寺誌参照)第一七代(鉄翁世代一五代)春徳寺住職
石崎融思、江稼圃、陸逸舟等に師事し逸雲、吾門、鉄翁は崎陽三筆といわれる。銀屋町日高勘右門の子として育ち一一歳の時父が亡くなり仏門に入ったという。
(春徳寺前住職上野宗修氏にお会いした時文久三年彦馬の写した鉄翁の写真を拝見又、鉄翁は寺の庭園の池に浮ぶハスの朝露を汲み書や画を書いたと教示された。)田能村竹田が鉄翁を初めて訪問したときの事である。竹田が座るやいなや「久闊(きゅうかつ)恙(つつが)なし満福満福」と言うと竹田は意味を解せずきょとんとしていると、鉄翁が肩を叩いて前世で私と君はいつも一緒に居たじゃないか、忘れたのかいと二人で大笑いした逸話もある程、茶目っ気もありしゃれを持ち合わせていた人であった。
 鉄翁三〇歳で春徳寺住職となり六〇歳で引退、その后雲龍時太素軒に移る(文政三年〜嘉永三年迄住職)

 利平・文平兄弟は乾堂の申し入れを驚きを持って聞いた。静かな口調であるが圧倒されそうであった。そんな張り詰めた空気が支配していた中、トキは運んで来たお茶を客の方へ差出し、顔を上げると鉄翁の長い髭と優しい目が訴えていた。
 おち着いた声ではあったが少し震えていた「出しゃ張ってすんませんけど」一呼吸入れて背筋を伸ばして利平へ「兄さん皆様のお申し出は受けた方が良かとじゃなかとですか」部屋中に凛として響いた。
 トキは商売柄、鉄翁や逸雲に陶磁器や書画、骨董の目利きの話を聞くのが好きであった。又先祖の墓参りの帰途すぐ近くの禅林寺に出向いて絵付けの作業を見るのが楽しみであった。目鼻立ちがきりりとした細面てのしっかりもので通っていた。今では目利きの腕も上達し窯業の知識も豊かになって来ている。

 利平はトキの声に押され、心を決めたようである。トキを文平の側に座るように促し、自らも座り直し襟元を合わせた。同時に逸雲はおもむろに側に置いていた風呂敷包みを解きながら出てきた桐箱を利平の前に差出した。箱書きには「出世鯉 甚五平」と銘が力強く太い字で書いてあった。

 逸雲は日田に居を構え長崎と行き来をし淡窓や竹田等と親交を重ねていた又全国の名勝地を尋ねその地の芸術家文人達と交歓するのを楽しんでいた。亀山焼を最も愛した人が逸雲であったろう。

 逸雲はやさしく桐箱を開けて中から藍に輝く香炉を取り出しながら、これは利平さんが誕生された年に傘鉾の飾を新調されたのを真似て先代の甚五平が作ったものです。これを完成させるには失敗の連続で気に入ったのは数個だったらしく、残していた最後の一個を利平さんへ渡してほしいと甚五平から頼まれた事を告げた。

 瞼を閉じてはいたが熱いものを感じていた利平は両手を付き一同に向かって来訪のお礼を述べ堂々とした態度で「お申し入れの儀了承致しました。私も商人であれば賃料は戴くとし、他の人の権利買取の件は手前でお支払いを致したいと思います。余った資金は甚五平さんの暮らしが成り立つ様お取り計らい下さい。」と乾堂にお願いした。
 利平はトキの発した言葉が、そして香炉を見た瞬間亡き父忠八が「買いなさい。自分の力で買いなさい。」と言った様に思えたのである。利平は心で合掌していた。
 香炉の鯉が胸びれを大きく横一文字に広げ今まさに天に昇らんとして龍に変わろうとしている・・・。父忠八が化身したかのように見えていた。
 文平も利平の言葉に依存はなく、小曽根家と近づきになれるのならそれで良いと思っていた。今さらながら鉄翁や逸雲の実力を思い知ったのである。

 鉄翁は髭をさすりながら座の一同を見渡して腰に差していた扇子を取り出し自分のヒザを叩いた。乾いた良い音がした。
 栄君(鉄翁は乾堂を栄と呼んでいた)君も立派じゃが利平さんも立派じゃなぁ。田の(・)利平は男でござる!言い出した鉄翁が笑い出すと一同の大きな笑いの渦となり座の雰囲気は和んだのである。
 鉄翁は思い起こす様に続けて何かを言おうとして、お茶を一口飲みこむと、又扇子を握りヒザを叩いた。「田ノ茶屋」と命名したらどうかと言い出した。トキは文平と違った意味で嬉しかった。鉄翁が名を付けてくれ亀山の地が身近くなった事、いつの日か窯に火を入れる事ができると思ったのである。亀山が田ノ茶屋に変わったのである。

 慶応元年(一八六五)五月亀山社中として龍馬率いる志士達の活動拠点となった。社中の志士達は水を得た魚のように激しい時代の流れにも勝る活躍を見せていた。

 それとは逆に亀山の処理を終えると、鉄翁は思い病で臥せる事となる。又逸雲は江戸よりの帰途暴風の為海難事故で亡くなるのである。(没年慶応二年八月、六七歳である)二人の事を想う時、亀山焼との因縁を感じざるを得ない。

 慶応二年八月、トキは逸雲が眠る禅林寺を訪れた。かつてこの場所で逸雲や鉄翁が絵付けをしていたのが昨日の事の様に思われた。墓参りを済ませ娘のコウとモリを連れ、社中となっている田ノ茶屋へ山道を登って行った。
 社中の表木戸を開けると使用人らしき人が応対に出てきた。トキは名前を告げ持参した徳利を渡し終えかえろうとした時に座敷の方から声が掛かった。土佐訛りであった。「おんしゃートキさんかい。話は乾堂先生から聞いちょりますきに。まっことおまんの一声で此処を借りる事が出きたそうで、お礼を言うのが遅くなってまっこと申し訳ない思うちょります。」日焼けした顔に縮み風の白い単衣の着流しが良く似合っていた。体は引き締まって涼しい瞳が澄んでいた。
 暑い八月ではあるがトキは全身から汗が噴出していた。もしや、この人はと思った途端「わしやー坂本龍馬と言います。今后共宜しゅうおたの申しますきに。」軽く会釈して、子供達の頭を軽くなでると屋敷内へ入って行った。トキは退ち去る後姿に深々と礼をしながら、脳裏にしっかり坂本龍馬を刻み込んだ

慶応三年(一八六七) 四月 竜馬は脱藩の罪を許され海援隊長となる
          一〇月 大政奉還

 茶屋は何事もなかったかの様に静けさが支配していた。此処はまさに兵者共が夢の跡である。草木だけが庭いっぱい生い茂っていた。亀山社中として僅か二年ではあるがこの地は歴史の一幕を飾ったのである。トキは龍馬の死を知り、この地田ノ茶屋を益々大事にしようと思った。
 その茶屋へ着くと最初に行う大切な儀式があった。周囲に人がいようが構わず大きな声で「我人の師と為らず。人我を学ぶは即ち狂人なり、人我が狂を学びて我が心を学ばざるが故なり。」鉄翁の口ぐせを自分に言い聞かせているのである。

明治四年(一八七一)一二月 鉄翁八一歳春徳寺に永眠する。
明治五年(一八七二)に入ると田ノ茶屋に動きが出た。

 十善寺郷焼物師亀川佐平太が利平を訪ねて来た。この頃利平は新しい商売の事で忙しくしていて弟文平に茶屋の方はまかされていた。実際の所はトキが監理していたのである。トキは子供達や手代を連れ掃除や草苅りを行い定期的に庭師を入れていたのでいつでも利用できる状態にある。子供達は庭や少し上の方にある窯跡付近で陶器の欠片を拾ったり探して遊んでいた。
 先年亡くなった鉄翁が眠る春徳寺も茶屋から良く見える。トキはいつもの如く儀式を行った後「両手を合わせた。新しく窯に火を入れる人が現れるそうです。どうか見守り下さい。」心の中で鉄翁や逸雲に報告をした。

 田家より茶屋を借り受けた亀川佐平太の窯業はトキの祈り空しく永くは続かなかったようである。
 小曽根乾堂が晩年長子晨太郎に亀山焼の再興を託したそうである。
 亀山の地を田利平から社中へ貸し出しの願いを行った時、自身で買えなかった心残りがそう言わせたのか、単に窯の再興を託したのか今となっては判らないが、晨太郎は明治二四年頃から明治三二頃まで小曽根邸にて小曽根焼を開窯するのである。(晨太郎と田家の間で亀山の地所の譲渡交渉があったのではないか、それが何かの理由でうまく行かず自邸内で開窯する事になる。小曽根乾堂明治一八年没五八歳であった。)

 トキは晨太郎からの申し出は有難いと思ったがこの地を手離す気はなかった。亀川佐平太に従って来ていた陶工達も大半は去って行ったが数人は残って居た。トキは残った彼等と皿や鉢、茶碗等日常的な物を焼いていたのである。精一杯の努力を注いだ焼物業ではあったが窯の経営は厳しかった。亀山の地理的条件はどうしようもないのである。

 トキは利平、文平に窯の存続を強く訴えた。利平は窯を経営、維持する事の難しさを説きながらもトキの気持ちは理解していた。
 そんな折、文平が煉瓦作りの話を持ってきた。文平、トキは陶工達と窯を使い煉瓦の試作や研究を始めたのである。文平がトキにできる最大の思いやりであった。

 新時代の建築材料として需要が見込める煉瓦製造へ向けて、文平は熱心に取り組み明治二〇年長崎東浜町にて煉瓦製造会社を設立する事になる。いずれにせよ文平も土と炎に魅せられた一人であった。

 明治二五年利平七二歳で亡くなる。明治三二年文平七三歳で亡くなる。トキは亀山の地田ノ茶屋を離さなかった。
(トキと文平の次女モリは、六代目文治郎の妻となり、文治郎が明治三二年の長者番付に名を連ねる様な家の繁栄を築いた。)

 文平に先立たれたトキは夢を見る事が多くなってきた。
 鉄翁が田家へ初めて来た時の事である。逸雲に伴われ奥の座敷で悠然と腰を据えた大きな体、あご髭は長く一見怖い顔である。それでもトキが手打ちした蕎麦を出すと、嬉しそうな顔で無心に口へ運んだ姿は憎めない子供のようであった。又夢の中で、筆を取った鉄翁が襖に向かい、やさしく話しかける様に蘭を描き、逸雲が一気に大きくしなやかに伸びた竹を描いて二人して満面の笑みを浮かべているのである。

 老い始めたトキは田ノ茶屋迄の山道を登れる内に心の炎が燃えつきぬ間に窯に火を入れ、生きた証しを残したかった。

 トキは亀山焼全盛時代いくつもあった窯を一つに仕切り、土をこね、見よう見真似で覚えた拙い技術を駆使して絵付けをし亀山もどきを焼いたのである。

 絵付けの図柄は夢の中で鉄翁と逸雲が襖に描いた蘭、竹を左右に中央には亀山の地、垣根山を遠くに配した。
 トキは鉄翁の言う所の「心を学んだ」のである。出来上がった作品の高台銘には亀山・田茶屋と入れた。

 平成八年、有田を中心に炎博が催された。広い空き地を利用して特売の台が出されていた一隅に大きなボードが設置されていた。各地の焼物の年代記が表示してあり、そこに亀山焼田トキの名前が書かれていたそうである。
 田家の分家の子孫になる方がこれを見た時、私のご先祖の人だと思い、早速田博子氏に教えたそうである。

 トキは大正六年八六歳で亡くなるが、田ノ茶屋は長女コウに引き継がれた。
 トキの言葉は六人の子供等に...。


平成21年4月8日公開